瀬々敬久監督の映画、『菊とギロチン(The Chrysanthemum and the Guillotine)』を観て思ったこと。
で知られる瀬々敬久監督は豊後高田市の臼野というところの出身だ。
大学は京都大学出身というから地元じゃ有名な秀才だったんじゃないだろうか?(もしくは神童?)
2018年7月7日に公開された映画『菊とギロチン』は構想30年というから年季が入っている。
時代は関東大震災直後の大正末期。
元遊女や今でいうDVに遭って逃げた女性などが集まる女相撲の一座、「玉岩興行」とアナキスト・グループ「ギロチン社」のメンバーが主人公。
どちらも実在した団体だというからフィクションといえど、リアリティがある。
『菊とギロチン』は一般人による一口50万円の出資金が製作に使用され、配給と宣伝の費用はクラウドファンディングにより集められたという。
つまりスポンサーに気兼ねなく自由に製作が可能だったということは本作において特筆すべき点だろう。
瀬々敬久監督はピンク映画出身の監督というだけあって、性描写のシーンはかなりのものだった。(きわどいシーンもあった)
観る前は「R15?なんで!?」と思ったが、見終わった後は「なるほど、R15に違いない。」と思った。
それほど暴力シーンが際立っていた。暴力というとハリウッド映画だけど、それとはまた違った、記憶の片隅に残るような映像だった。
『菊とギロチン』には、東出昌大や新人の筧一郎(父親は佐藤浩市、祖父は三國連太郎)などイケメン俳優が出演している。
アナキスト・グループの「ギロチン社」なんて本当は殺伐としたものだったかもしれないけど、『菊とギロチン』はとてもユニークな若者として描かれている。
瀬々敬久監督はインタビューで大正末期と今(東日本大震災後の日本)は似ているという。
『菊とギロチン』を観て思ったことは、大正末期はとてもハードコアな時代だったのだということ。軍や警察が前に出てくるのでその印象が強かった。
対して今はソフトコアな時代だということ。
その違いはあるにしても、社会から猥雑なものを排除して、「正しく」あろうとしている時代という部分は非常に気になる所だった。
女相撲はともかく、「ギロチン社」なんて猥雑以外の何物でもないが、そういった時代の極端なものを描写することで、その時代の異常さが分かる。
社会から猥雑なものが消えたら、面白みのない世の中にならないだろうか?
ニヒリズムに陥ることなく、情熱を傾けられる対象を持つこと。
世の中は変わらない、と悲観することなく、世の中は変えられるかもしれない、という希望を持つこと。
どんなに絶望的な状況だとしても屈しないこと。
そういった事をこの映画から教わった。
◎『菊とギロチン』はyoutubeとgoogleplayで見れます。
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◎大分市の「シネマ5」で見た。
◎主演女優の木竜麻生が良かった。
◎公式サイトhttp://kiku-guillo.com/